平嶋大輔の生い立ちストーリー

幼少期

神奈川県横浜市南区で生を受けました。
父が35歳、母が32歳で産まれた長男。

両親が共働きだったため、
生まれてすぐ祖母の家に預けられ、
日中は、祖母の家で過ごしました。

その後、5年後に弟が生まれて、
磯子の三丁目団地で、親子4人の愛情に溢れた家族で育ちました。

性格はというと、おっとりとした性格で、
母から「もっとハキハキしなさい」と怒られ、泣き喚いたり、
走って顔から転んで傷を作って、泣き喚いたり、
負けず嫌いな性格な子供でした。

小学生時代

小学生の頃は、自分から話しかけることなんてできないほどの人見知り。
しかし、幸いなことに多くの同級生から声をかけてもらい、
友達に溢れ、スポーツに勉強に楽しく取り組むことができました。

しかし、小学校5年生のとき、隣の学区に引っ越しすることになり
学校を転校することになりました。

長年、同じ時を過ごした友人との別れはとても辛かったです。

その後、小学6年生で転校した学校ではどうだったかというと、、、
極度の人見知りを発揮してしまい、転校2ヶ月は友達がいない状態。

女子の同級生からは、「早く馴染めよ!」と叱責される始末(笑)

しかし、徐々に新しいお友達ができていき、
スポーツを趣味に友達との交流を深めました。

平嶋は背が158cmと高かったので、バスケットボールが得意でした。

中学生時代

中学も横浜市立の中学校に通いました。
バスケというチームワークのスポーツに飽きてしまい、
卓球という地味なスポーツを始めました。

しかし、この頃、中学校では
ある、男の子に対するいじめが蔓延。

そこで平嶋はいじめっこグループの、
ジャイアン体質ではなく、スネ夫ポジションの人に
「このままでいいのかい?」という
手紙を見せて周り、いじめ撲滅活動を展開。

そして、手紙活動を続けることで
いじめの頻度が徐々にと減っていきました。

卒業式の時、いじめられていた男の子から、
「ありがとう。」と涙ながらに言われたことは
数十年経った今でもはっきりと覚えています。

この書くことで人を助けることができるんだという原体験が
その後のセールスライティングにつながりました。

そうした原体験の一方、初恋もしました。
クラスにすごい好きな女の子がいて、
隣の席になるというチャンスもゲットしたにも関わらず、
告白する勇気が持てなかったことを昨日のように覚えています(笑)

でも、その女の子との何気ない会話をしたり、
見つめ合ったりした時のドキドキ感や、
優しい彼女の気遣いから、「この子、僕に気があるのかな?」と
今となってはとても恥ずかしい勘違いとかをしていました。

肝心な成績はというと、英語、社会、国語の成績は
とても良かったのですが、理科、数学、家庭科などの教科はほぼ1。

かなり科目によって成績が偏ったため、
少しガラの悪い公立高校に行くことになりました。。

高校時代

周りのイケイケな同級生の勢いを借りて、
髪を金に染めたり、赤に染めたり、
いわゆる高校デビューをしました。

高校の帰りも高校の近くの公園でたまり、
恋愛の話をしたり、原付バイクの免許をとりに行こうって話り、
夜通し語り合ったり、たくさんの時間を友人と過ごしました。

今までの引込み事案の性格を直したいという気持ちから、
ギターを買って弾き方を覚えて、路上ライブをスタートしました。

ギターケースを広げて投げ銭ウェルカムですと紙を貼って、
ストリートライブしてたら、あるお兄さんが、「これで好きなものをくえ!」
と2,000円渡してくれました。

これが、平嶋が自力で初めて稼いだファーストキャッシュとなりました。

そして、その噂を聞いたのか、
女子生徒がライブに来てくれるようになり、
モテ期が到来します。

「今でも、あの頃に戻りたい!」と思えるような
甘酸っぱい思い出もあり、熱い友情もある、
そんな、素晴らしい体験の溢れる日々でした。

大学時代

高校3年生になって必死に勉強した甲斐もあってか、
地元の中堅大学の神奈川大学に入学することができました。

専攻は国際経営学。
キャンパスは今はなき「湘南ひらつかキャンパス」でした。

家から平塚駅までが1時間、平塚駅からキャンパスまでが
1時間くらいだったので、往復4時間の小旅行のような通学でした。

サークルは国際交流サークルのWildgooseというサークルに入部しました。
平嶋は中学時代から英語がとても好きだったので、
英語力を鍛えるためにも英語を勉強したいという理由からでした。

カンザス大学から来る交換留学生を歓迎するパーティーを主催したり、
国際交流抜きで、オールで仲間とカラオケに行ったり、
大学時代も、とてもとても楽しい日々を過ごしました。

そして気になる恋といえば、相変わらず奥手のびびりで、
自分から告白できなかったのは変わりありませんでした(笑)

就職活動

大学3年生の後半から就職活動が始まりました。
当時はとても景況が良くて、学生1人が5社から
内定をもらうなんて当たり前の時代でした。

しかし平嶋はというと、大学3年冬という大事な、大事な時期に、
足を捻挫しました。。。重度の捻挫で全治1ヶ月でした。

スポーツをしていたわけでもなく、
バイクに乗っていたわけでもなく、
普通にこけて、足を捻りました、、、。

結果、捻挫し、就職活動ができなくなってしまったのです。

やがて、予定が伸びて、約2ヶ月経た時、普通に歩けるようになりました。

そして、就職戦線に戻って、とにかく大企業に入ろうと、
電通や、富士通、日立、JTB、博報堂などを受けましたが、
全部不合格。

その後、薬の卸売業者や、医療機器の営業職や、
プリンタの営業職を受けたものの、全部不合格。

当時を振り返ると、自分の目的もわからず、
とりあえず、コミュニケーション能力を発揮したいという
わけのわからない理由から業種問わず、営業職ばかり受けていました。

だから受からなかったのかもしれませんね(笑)
売れない就活生になりました(笑)

その後、なんとかOBを辿って、
川崎の老舗のスイッチメーカーに営業マンとして就職しました。

社会人

2008年春、新卒として川崎にある老舗スイッチメーカーに就職しました。
当時の営業本部長に可愛がっていただき、かつ拾っていただいての就職でした。

しかし、入社後に発生したリーマンショックの影響もあり、
あと、自分の営業力がないこともあり、まるっきり売れない営業マンでした。

お客様と面と向かった途端、カタログを出して商品紹介して、
すぐ帰るというのが典型的な営業パターンだったので、
今思うと売れなくて当たり前だよね、、、と思います。(笑)

上司からも、「なんで世間話をして仲良くなれないんだ!」だとか、
「なんでストーリー性を考えてセールスできないんだ?」
などと叱られる日々。

頭では何か変えないといけないとわかっていても、
どうすればいいのかわからないそんな日々が続きました。

諸先輩からの熱烈な指導をいただいたにも関わらず、
全然売上が立たず、自力で一件も案件を掘り起こせないまま、
入社から丸3年経過した2011年3月(ちょうど東日本大震災発生の2日ほど前)に
会社から退職勧告を受けて、退職。

この経験から自分は営業ができない人間なんだ、
というセルフイメージが確固たるモノとなりました。

その後、平嶋はある某有名人材派遣会社に中途入社。
それからは、数少ない営業経験を活かして、営業事務職として、転職をしました。

こちらの会社では、なかなかの活躍をすることができ、
なんと1社目では考えられなかった部内表彰までいただけるようになりました。

しかし、、、そんな矢先にいきなり部署異動が発生。
かなりブラックな現場に飛ばされてしまいます。

・わからないことを聞きに行っても
 理不尽に「俺のところに来るな!」と怒鳴られる現場。

・休みたくても休めない職場。

・指示の出し方が高圧的で、
 全てが命令に聞こえる上司。

・気持ちが萎縮し、小さなミスを
 連発してしまう日々と孤立していく職場環境。

・”仕事を辞めたいと思うなんて”
  甘いんじゃないか?”と思う自分

・憂鬱になる日曜日


・転職活動の紹介案件は見込残業80時間込み仕事。
   職場環境が今より悪くなるのではないか?
   でもこのままでは…という葛藤と不安

そんな不安に苛まれた結果、
始業時間になっても家から出られないという始末。

おそらく出社を精神的に拒絶していたのだと思います。

そして、結果的に異動から6ヶ月後、
その職場を退職することを余儀なくされました。

人材派遣会社を退職後、派遣社員の営業事務として、
東京・八重洲の会社に従事。

これまでの経験を活かして、
イキイキと働くことができました。

と同時に、人材派遣会社の経験から、
「一緒に働く人を選ぶ自由、
 働く場所を選ぶ自由を選びたい」という欲求が強くなり、

好きなことで副業して、ゆくゆくは起業も目指す、
週末起業スター養成塾に入塾。
同時期に同棲していた彼女と、2016年に結婚しました。
 
が、副業塾に入ったものの、
ビジネステーマが決まらず、悶々とした日々。
決して安くないお金を払っていていたので、焦った結果、

その副業塾のコンテンツをまるパクリして、
セミナーを開催することにしました。

しかし、集客結果は7回開催して、2名。
バックエンド商品として用意していたコンサルティング商品も売れませんでした(笑)

その後、セミナー集客数をもっと増やしたいという思いから、
セールスライティングの勉強をスタート。

7回開催して2名の状況から、半年間に12回開催して、
広告なしのネット集客だけで24名の集客に成功することができました。
でも全然、バックエンドが売れなかったんです。

そんな悩みを起業仲間に打ち明けたところ、
「人を集められる文章が書けるなら、
 自分のセミナー告知文も書いて欲しい」
そう、言ってくださる方が増えてきました。

そして、副業という形ですが、
2017年セールスライティングを
ビジネスの中核として事業をスタートしました。

途中、本当にビジネスがうまくいかなくて
お金がなくて、妻にも八つ当たりして、離婚に至ったことがありました(笑)

今では良い経験をくれたこと、平嶋の人生を彩ってくれたことに対して、
元妻に感謝の気持ちを持っています。

元妻の幸せを祈りつつ、セミナーからの受注ルートを構築し、
クライアントにセールスレターやコンサルティングを提供してきました。

その結果、試行錯誤を経てセールスライターとして
クライアントのレターを書き続け、

こんな成果を出すことができました。

マーケティングセールスライターとして、、、

「交流会に行って常に集客するのが疲れた・・・」と悩む起業支援コンサルタントが、
メルマガに告知文を載せたところ、年間47名の顔も知らない新規見込み客がセミナー参加し続けた。
(創業支援コンサルタント K.Tさま)

何度自主開催セミナーをしても、集客ができないと
悩んでいた営業コンサルタントが
告知文の文章を変えただけで
集客数が3倍に跳ね上がった!
(営業コンサルタント S.Kさん)

ファッションスタイリストオンライン養成講座(9.8万円)を
オンライン販売して、成約を獲得!
これから広告費をかけて販売展開!
 (ファッションスタイリストコーチ K.Sさま)

新しいサービスの集客手段に悩んでいた
スピリチュアルビジネスコンサルタントが10名の個別相談予約獲得! 
(ビジネスコンサルタント A.Tさま)

「自主開催のセミナーが決定したけど、集客が大変」と、
悩みを持つメンタルコーチが
Facebook集客したところ5日間で19名の集客!
追加日程の問い合わせも多数!

 (ビリーフチェンジコーチ T.Kさん)

こんな成果を出せるようになったのです。

多分、この結果を10年まえの自分に言っても、
「お前、そんなことできるわけないじゃん、
 売れない営業マンだったお前が!」と言われていると思います。(笑)

でも、今の自分はこんなものじゃない!!
クライアントに書くこと、そしてセールスシナリオの伝え方を通じて
もっともっと貢献したい、そしてお客さんと一緒にRich Richiになっていきたい、

そんな偽らざる気持ちで、日々仕事に励んでおります。

さて、あなたはどんなお悩みを持っておられるでしょうか?

きっと、今よりももっともっと売上を伸ばしたい、
もっと利益率を高めたい。
お金と時間を両立したい、利益を上げながら、自由な時間が欲しい。

そうお考えになられていると思います。

そんなご自身の人生、ビジネスに真剣な
あなたの理想の人生を実現する、
ビジネスパートナーになれれば、僕はこれ以上の喜びはありません。

あなたの人生がより充実した実りのあるものになりますよう。

平嶋は祈っています。

Web集客サポーター
平嶋大輔


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